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日外会誌. 122(5): 435-436, 2021

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先達に聞く

学び,時々考える.

京都大学名誉教授,関西電力病院学術顧問 

今村 正之



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想い出
その1 新米外科医時代
臨床家として成長する過程で,多くの先生方に教えを受けてきた.医療現場に新米外科医として立ったのは兵庫県の田舎の国立病院で,外科は8年先輩の外科医長と二人で,病院の常勤医師は内科二人,産婦人科一人の総計五人であった.麻酔は導入後を看護師に頼み,虫垂切除から胆摘,胃切除,骨折や尿管結石,頭部外傷なども手術した.術前日には先輩と手術書を読み直して手術に臨んだ.大学院生として帰学した後,応援医師として再び同地を訪れた時のタクシー運転手が,「私は先生に硬膜外血種を治療してもらって,手術の時の穴が頭に残っています.」と言われたことがある.当時は,脳外科のような新しい領域の外科と異なり,消化器外科医の仕事はほぼ完成しているので「自分はそれを習うだけだ.」と考えていたように思う.
その2 大学院生時代と米国留学
当時の京都大学では外科2教室と脳外科,整形外科,麻酔科をローテーションするのが慣習であった.CTが導入される以前の脳外科では診断法に苦慮していた.心臓外科は低温麻酔下での開心術を麻酔科と共に追求していた.当時,本邦で胃粘膜の襞を描出できる二重造影法が開発されて,早期胃がんの診断が可能となってきていた.私も出張病院で同級の大学院生と二人で早期胃がんを見つけて,交代で執刀医となり,リンパ節郭清を伴う胃切除を修練していた.次いで本邦で胃カメラが開発され,直ぐファイバースコープの発展が目覚ましい速度で進んだ.その間,大学の外科は学生紛争で大揺れを経験して,臨床面では関東で始められた胆管・膵管の直接造影法などの進歩から数歩遅れていた.第1外科教室教授は本庄一夫先生であった.先生は脳外科が専門の荒木千里教授の助教授を経て,九州の小倉病院で本邦初の膵全摘術,世界初の定型的肝右葉切除術を成功させて,第一外科教授となられていた.当時の助手三人は私の8年先輩で,この三人からは親しく指導を受けた.その一人が鈴木敞先生で先生の下で大学院生として腹部血管造影術を習った.先生は肝・膵の動脈と門脈の変異と肝癌,膵癌による変化を追求していたが,国際的に認められる研究成果のみを目指して研究し,次々と英文論文を発表されていた.お陰で私も共著者として英文論文に名を連ねることができて,いつか英文論文の筆頭執筆者になりたいと願うようになっていた.当時から膵癌は膵管から発生するために,門脈や動脈に変化を来すのは癌が進展した後であり,早期癌の診断には膵管造影が必須であることは,先生も私も認めていた.
もう一人が小野博通先生で,先生は天才的な才能の持ち主で,英文の手紙や論文の文章は自由自在に書くことができて,小説も書く人であったが,自ら門をたたいてHarvard 大学とUCLAに留学された.そこで多くの友人から尊敬される存在となり,Longmire教授の教室では,当時,膵切除の際に克服できない課題であった門脈合併切除を可能にする上腸間膜静脈と腎静脈の吻合術を犬で成功させていた.私は先生の推薦書をもってHarvardとUCLAに留学した.留学時代は英文論文を仕上げたことは収穫であったが,米国を知り,親切な人々と交流できたことが何よりも貴重な人生経験であった.後年,教授になってから,多くの大学院生に留学を勧めたのは,留学が貴重な人生経験として役立つであろうと考えたからである.Bostonを去るころにHarvardの脳疾患施設で導入されたCTを見学した時には,脳外科診療が変わる歴史の分岐点にいるという思いをした.その後のCTの進歩,MRIの開発と進歩が臨床医学を革新した経過はご承知の通りである.
その3 講師時代まで
留学から戻って京都市の桂病院に就職した.この病院では伝統的に呼吸器科センターの臨床と研究活動が盛んで,池田貞夫センター長は,勤務後に京都大学の研究室で熱心に肺癌の腫瘍抗原の研究をしていた.大阪大学の神前五郎教授の腫瘍マーカー班の班員としても活動していて,私もこのグループに参加して,膵癌抗原の精製を始めた.班の懇親会で神前先生と一緒に温泉に入ったことは懐かしい思い出である.先生とは学会でよくお話しさせていただいた.「今村先生,消化器癌が臓器によって発生原因が異なることが,最近やっと分かりました.」と顔を紅潮させて話されたのに驚かされたこともある.その後,私が教授退官後も神経内分泌腫瘍の研究を続けていることを医学雑誌で知って,励ましのお手紙を賜りご自身のlife workである血小板生成機序の電子顕微鏡的研究の論文を頂いた.
本庄教授の助手となって大学に帰り,研究を続けて3年後に倉敷中央病院に移動して,2年後の食道外科の講師として大学に戻り,助教授を経ずに教授となるまでの間は,無我夢中で過ごしてきた.その間,講師時代に前谷俊三助教授からお聞きした「患者さんに学ぶ.」という言葉は,臨床医にとって最も大切な真実の言葉であると,今も考えている.医師が患者をrespectして診療し,患者が医師をrespectして治療を受ける.お互いが相手から多くを学べるのである.臨床研究もこの関係から始まり,発展することができて,その成果を患者が享受できる.
そして,今.
多くの優れた先輩や友人が世を去った.今,思うと「人生において楽しいことは,自分自身が何か新しいことを見つけること,新しいことを体験することだ」,と思う.そして生きることの楽しみは「多くの優れた人たちを知り,心を通わせることができたこと」であろう.
自分が何か新しい考えに出会うには,日々手を動かし,努め,学ぶことが前提である.そうしていると,時々,急に頭が働きだして,新しい考えが生まれる.学生時代の生化学教授早石修先生が座右の銘とされていたという,「凡人は,先ず,働かなければならない.」という言葉は真実である.現場で働いている者のみが,新しいことに出くわす幸せを享受できると考えている.

 
利益相反:なし

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