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日外会誌. 124(2): 149-150, 2023

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先達に聞く

自我作古の人々

北里大学北里研究所病院 

渡邊 昌彦



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I.外科医のidentityとは
国立がんセンター病理部で1983年から2年,若き日の廣橋説雄先生に師事した.研究の考え方,論文の書き方は全て先生から学んだ.或る日,薄暗い培養室で先生は呟くように言われた.「君にとって外科医のidentityって,何?」咄嗟に訊かれた私は答えに窮した.「例えば君がAppeとか手術するとする.まあ,患者や家族から感謝されるよね.でもさ,他の外科医に手術されても,結果は変わらない.一方,世界で1人しかできない手術なんて,そうはないよね.君が将来どんな外科医になるか,楽しみにしている…」.
以来,私の心のどこかに,この質問が引っかかっていた.

II.内視鏡外科の魔力
同僚の大上正裕は留学中ボストンで見学した腹腔鏡下胆嚢摘出術に魅了され,シアトルにいた私に電話をよこした.
「大きな手術ができるので,食道外科医の道を選んだ.しかし,これからは内視鏡を用いた低侵襲治療が主流.僕は開腹手術を止める.内視鏡外科をライフワークにする!」と彼は捲し立てた.私は「テレビゲームみたいな手術なんて危険すぎて御免だね.」と返した.そもそも低侵襲治療って何さ?
私の忠告というか感想など馬耳東風.大上は帰国後直ぐにラパコレを出向先の病院で開始した.当時まだ杏林大学におられた北島政樹先生は,大上の手術を見学しに向かった.二人はすっかり意気投合し,内視鏡外科の無限の可能性を語り合ったという.翌年,慶應義塾大学外科学教室教授に就任された北島先生は移植,再生医療そして内視鏡外科の三つを研究の柱に据えた.
大上と一緒に帰室を命ぜられた私は,直腸がん側方郭清の意義や,自ら開発した抗体によるがんの診断・治療などの研究ができると楽しみにしていた.ところが,1992年のGW明けの或る日,大上と私は教授室に呼ばれ「大上は内視鏡外科全般,昌彦には大腸の内視鏡外科を担当してもらう」と告げられた.「えーっ,」と絶句する私に「大丈夫!当分は二人三脚でいくからさ」と大上が耳元で囁いた.
こうして豚の手術から一足飛びにヒトの腹腔鏡下大腸がん手術の初例を敢行したのが1992年、私が39歳の初夏であった.通常,3~40分で終わる手術が4時間を超えた.豈図らんや78歳の手術翌日の患者はご機嫌に競馬新聞を手にしていた.第1病日歩行,経口摂取,第5病日退院と,予定通りに事は進んだ.私は「内視鏡外科は外科の革命だ」という大上の言葉を改めて噛み締めた.

III.パラダイムシフト
内視鏡外科が教室の柱として認められたお蔭で,大上は胃がんや胆石症をはじめとした全ての消化器,私も早期癌を適応として大腸がんの症例を重ねていた.こうして毎日が新鮮で刺激に満ちた40代を過ごした.狭小空間で安全に視野を展開するために,患者体位,ポートの位置,臓器の牽引方向等に工夫を凝らし手術の定型化を目指した.テクノロジーの進歩は内視鏡外科の発展を牽引した.とりわけ術者の目となる内視鏡は,生体膜,神経,筋繊維などの微細構造を映し出した.超音波切開凝固装置は無血手術を実現し,自動縫合器は容易で安全な吻合・縫合を可能にした.
腹腔鏡下早期大腸がん手術を恐々始めてから5年が経過し,様々なピットフォールに陥りながらも,徐々に手技も習熟していった.適応拡大の契機となったのは,筒井光春先生(新潟県立がんセンター新潟病院)との出会いであった.当時,世界に先駆け先生は電気メスだけで精緻なリンパ節郭清と内側アプローチを組み合わせた進行大腸がん手術に挑んでおられた.「内視鏡外科は開腹手術より精緻なリンパ節郭清が可能!早期癌だけやっていては駄目だよ」と説かれた.豊富な解剖学の知識に裏付けられた手技を学ばせてもらい,私もいつしか進行大腸癌への適応拡大へと舵を切った.先生の確立された基本手技は,今も大腸がん手術のスタンダードとして世界中で行われている.
私が適応拡大を目論んでいたころ,米国ではPort-site-recurrenceが相次いで報告され,内視鏡外科はがんには禁忌ではないかとの議論が湧いて出た.後にこの特殊な再発はがん手術の基本を怠ったために生ずるとtechnical errorだと証明された.一方,本邦では様々な開腹派の先生方の批判を交わしながら,早期がんから手術手技を磨き徐々に適応を拡大していったため,この再発は殆ど問題にならなかった.こうして「内視鏡外科はがんの標準的な治療になる」がいよいよ現実味を帯びてきた.
大上の興味は手術手技の洗練に止まらず,遠隔手術やロボット手術に向いていた.1996年には工学部との手術ロボット開発に着手し,触覚センサーの応用を考え始めた.1998年にはダビンチの本邦への導入や,実用化されたばかりのアノテーションを組み合わせた遠隔手術指導の実装化に向け奔走していた.そして,第100回日本外科学会総会では,ロボット手術と遠隔手術指導のライブが実現した.これは21世紀の外科学におけるパラダイムシフトの幕開けの瞬間だったのではないだろうか.

IV.世代を越えてこそ
21世紀を迎えて内視鏡外科の魅力は,ますます若手外科医達の心を捉えて離さなかった.内視鏡外科の教育と安全な普及を目指して,仲間数人で腹腔鏡下大腸切除研究会を発足させた.この会は年々会員数が増え続け,ほどなくして100人は優に超える大所帯となっていた.手術手技について,酒を酌み交わしながら夜を徹して語り合う温泉旅行を年2回企画した.こうして医局の垣根を超えた友情を育むうちに,面白い臨床研究を全員でやろうという機運が高まった.年齢,地域,施設に関わらず,誰もがアイデアを出しあって臨床試験をスタートさせると瞬く間に症例が集まる.今も若き外科医と熱く語り合い学ばせてもらっている.
さて,「外科医のidentityは何か」という廣橋先生の問いに即答できなかった私だが,果たして先生の期待に応えることができただろうか.

 
利益相反:なし

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