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日外会誌. 123(5): 376-377, 2022

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先達に聞く

内分泌外科と私―そのきっかけから現在まで―

日本外科学会特別会員,金地病院 

清水 一雄



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人生には必ず何回かの分岐点があり,その時に適切なアドバイスを頂く先輩達がいる.しかしこのアドバイスを自分のものに消化し次へのステップを踏むのはやはり自分自身であろう.私の内分泌外科とのきっかけから今日までを思いつくまま述べてみたい.

I.甲状腺疾患を扱うきっかけ
1974年,当時,腎臓が専門の日本医科大学病理学教室の大学院にいた付属第一病院第2外科(飯田橋)入局二年目の私は,故矢島権八主任教授に呼ばれて仕事についての指導があった.当然,腎臓病に関する研究と思っていたところ,考えてもいなかった「君,甲状腺をやりなさい.」であった.これが私の内分泌外科への最初のきっかけである.この時先輩から甲状腺疾患の組織を手に入れるため甲状腺専門病院で有名な伊藤病院を紹介された.多数例の切除標本のお陰で仕事が卒業半年前に終わった私は病理だけでなく臨床も勉強とその半年を伊藤病院で過ごし臨床を経験した.この時の指導者,故伊藤國彦院長,故三村孝副院長はその後も含め公私ともに私が医師としての生活のすべてを教えていただいた先生方であった.

II.一般消化器外科の中での甲状腺専門外来
その後,医局に帰り一般外科の研鑽を積んでいる頃,私の所属した当時の日本医科大学付属第一病院第2外科学教室の故庄司佑主任教授から「せっかく甲状腺を勉強したのだから,甲状腺の専門外来をやったらどうか」と,声をかけて頂いた.早速幾多の先輩を世に送り出している教室のOBに案内状を送り,当時専門外来などというものは世の中になく私自身も半信半疑であったが週一回の甲状腺専門外来なるものをスタートさせた.1978年の事である.最初は,患者がなく,開店休業状態の日々が続いた.しかし,私は患者が紹介された時は,来院の報告から始まり,診断結果と治療方針の報告,経過と結果の報告,手術患者の場合はこれらのほかに入院報告,手術所見と退院まで,そして病理結果報告と一人の症例に対し3回~6回の報告を必ず紹介元に送るようにした.すべて手書きの時代であった.

III.海外留学と甲状腺
海外留学の機会が訪れた.論文を読んでいる中に医局の先輩が留学している米国ノースカロライナ州のデューク大学にProfessor Samuel A.Wellsという新進気鋭の教授(のちにAmerican College of SurgeonsのDirector )がおり,ParathyroidのcryopreservationとAutotransplantationを行い世に名を馳せていることが分かった.早速,手紙を書いた.1980年の事である,自己紹介と将来の夢などを切々と書いたが,実際は留学そのものに対するあこがれを綴ったものであった.見ず知らずの東洋人から何の前触れもなく,何の具体的研究課題もなく,突然ただ「あなたの下で勉強したい」との手紙を受けたWells教授から何と予想だにしなかった「諾」の返事を頂いたのである.留学先での研究課題はこれも予想だにしなかった当時の流行最先端であったモノクローナル抗体を用いた研究であり免疫ラボを紹介され故Dr George S.Eisenbarth(のちDMで有名なBarbara Davis CenterのPresident)の下で1980年から2年間鍛えられた.私の扱ったモノクローナル抗体A2B5はneural crest originのAPUD系細胞に選択的に結合し,甲状腺ではC細胞とその腫瘍である髄様癌に結合する.当然の事ながらインスリノーマ,副腎髄質腫瘍にも結合するこの抗体で2年間仕事を重ねることが出来た.

IV.甲状腺外科から内分泌外科へ
帰国後の1982年からも甲状腺外来を続けており,都内のデパートから学校を含め多数の施設に専門外来の案内を出し患者の獲得に努めた.そして10年も経過すると患者数が徐々に増加し片手間に甲状腺疾患を消化できなくなってきたのである.そのころ当院の内分泌・糖尿病・代謝内科に東京女子医科大学から故若林一二教授が赴任されたのをきっかけに甲状腺,副甲状腺以外に副腎を中心とした内分泌外科疾患が増えさらに多忙となってきた.相前後して私のあと,冒頭の伊藤病院へ継続して勤務する教室の後輩が増え,明らかに内分泌外科としてのグループの基礎が形成されてきた.

V.付属第一病院から千駄木の付属病院への移籍
そんな中,勤務地の飯田橋の付属第1病院が統廃合されるとの話がもちあがった.1995年,私は付属第一病院第二外科から日本医科大学付属病院胸部外科への移籍と共に,移籍先の専門分野である心臓血管外科,呼吸器外科学分野に新たに内分泌外科学分野が教室の方針として産声を上げた.教室には私一人から後輩が少しずつ移籍また入局してきて新たに大学の方針として内分泌外科が呼吸器外科,心臓血管外科と並列して設立されたのである.その後は教室員も増え,症例数も年々増加し年300例を数えるようになり,私は初代の大学院教授となった.2014年に私は引退したがその後は現在まで杉谷巌教授が後任として教室を受け継いでくれている.

VI.後輩へのメッセージ
「迷ったら前に向かって行動せよ」「熱意と向上心をもって」は私の座右の銘である.迷っているだけでは何も始まらない.前に向かって,しかも熱意と向上心を持って行動することが大切だ.そこには先達の適切なアドバイスがあるはずである.このアドバイスを消化し自分なりに道筋を決めあとは,行動あるのみだ.甲状腺へのきっかけを作って頂いた大学病理の故矢島権八教授,伊藤病院時代の故伊藤國彦院長,故三村孝副院長,大学に戻った後甲状腺の専門外来を持たせていただいた故庄司佑教授,留学時代のProfessor Wellsと故Dr Eisenbarth,甲状腺外来から内分泌外科へ大きな一歩を作っていただいた故若林一二教授,一人で始めたこの分野を盛り上げてくれた多くの後輩,これらの先輩,後輩のアドバイス,協力に対し熱意と向上心をもって対応し前に進んだ結果が今の日本医科大学内分泌外科を支えている要因の一部となっているのかもしれない.

 
利益相反:なし

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