日外会誌. 123(2): 143, 2022
Editorial
東京パラリンピック
九州大学病院別府病院外科 増田 隆明 |
東京オリンピック・パラリンピックが2021年夏に開催された.コロナ禍の中,選手の活躍に奮い立たされた方も少なくないだろう.本稿では,パラリンピックにちなみ “日本の障害者スポーツの父”といわれる整形外科医,故・中村裕先生を紹介したい1)
2).
今回のパラリンピックは本邦では2回目となる.初回は1964年に同じく東京で開催された第2回パラリンピックで,開催に尽力した中村先生は選手団長を務めた.
中村先生は別府に生まれ九州大学医学部を卒業し,国立別府病院(現国立病院機構別府医療センター)整形外科科長を務めていた1960年,当時の日本ではなじみの薄いリハビリテーション(以下,リハビリ)の研究のため,ストーク・マンデビル病院(イギリス)の“パラリンピックの父”ルードヴィッヒ・グットマン先生の下に留学した.グットマン先生はパラリンピックの源流となった国際ストーク・マンデビル競技大会を創設している.当時の日本では脊髄損傷患者の社会復帰はほぼ不可能であったが,この病院ではスポーツを取り入れたリハビリで多くの患者が再就職していた.中村先生は驚愕し,日本でのリハビリの普及を目指して必死に学んだという.
帰国後国立別府病院で,グットマン先生の“失ったものを数えるな,残されたものを最大限に生かせ(It’s ability, not disability, that counts)”を合言葉にスポーツを取り入れたリハビリを実践していく.1961年には大分県身体障害者スポーツ大会を開催した.
1962年,日本は国際ストーク・マンデビル競技大会に初参加した.副団長の中村先生は身銭を切って資金をつくり選手を引率した.日本初のメダルを獲得したこともあり,マスコミに大きく報道され,本邦において障害者スポーツの認知が高まっていく契機となった.
1964年東京パラリンピックは,日本の参加者にとって驚きの連続だったという.なかでも外国人選手の明るさ,積極性は,それまでの日本での障害者イメージを覆すものだったためマスコミでも報道された.この違いの要因と考えられたのが,社会復帰率の差であった.翌年の1965年,本邦の障害者スポーツの普及・振興を図る統括組織として,日本障がい者スポーツ協会が設立された3).
中村先生の留学からわずか5年強で本邦初のパラリンピックの開催から,障害者スポーツの統括組織が生まれ,その結果本邦での障害者に対する認知度が高まり,障害者の社会復帰が進むことになった.現在,障害者の実雇用率(常用雇用で働いている障害者数の割合)は右肩上がりで,2020年時の民間企業は2.15%と過去最高,公的機関でも2.83%(国)と前年よりも0.52%上昇している4).
一人の医師として目の前の患者さんの治療,地域医療に奮闘している毎日であるが,大先輩の中村先生のように日本,世界医療へどのように貢献できるのか考えていきたい.
利益相反:なし
PDFを閲覧するためには Adobe Reader が必要です。